「メイジーの瞳」 内田也哉子(文筆業・sighboat)
のどの奥に大きなつかえがある。そのつかえが何なのか、見当がつかない。メイジーの瞳に映った大人の醜い言動のせいか、あるいは、その大人たちのどうにも折り合いのつかない感情と日々のせいなのか、、、。ただひとつ分かることは、潜在的に私は、メイジーであり、その母であり、父である、ということ。そして、親の子であった自分を思い出し、子の親となった自分を思い出した。この三者三様のやるせなさは、人の子として生を受けた者なら、きっと誰しも味わったことのあるニガミのようなもの。私ののどのつかえはそんな味の塊かもしれない。
男と女が出会い、恋に落ちる。結婚という約束をしたかしないかは置いといても、愛し合い、やがて女が身籠もるとする。「こどもを作ろう!」と計画したにせよ、予想外に芽生えた命にせよ、こどもという「ふたり以外」の人格が新たに生まれてくるのだ。絶妙なバランスの上に成り立つ人間関係が、一対一でもぐらつきやすいところへ、言葉も通じない、理屈より生理を常に優先させる赤ん坊が参入するとなれば、波風がたたないわけがない。あるいは、その予想外の波風によってこそ成立する関係性もあるかもしれない。なにせ、パズルをはめてみないことには何がしっくりくるか分かり得ないのが、人間の営みの面白さでもあるから。また、はまることが心地よいのか、見つからないカケラを探し続けることに喜びを感じるのか、あるいは、はまりそうで、はまりきらないけど、いつかはまるかも、と自身を説得するか、、、。何をぶつぶつ言いたいかというと、人間関係、つまり家族関係には、正解がないという、至極当たり前のこと。けれども、私たちは度々このことを忘れ、出口のないラビリンスに迷い込む。
その意味で、メイジーの目の当たりにすることは、私たちから遠く掛け離れたことじゃない。状況の違いや温度差はあれど、メイジーのように、こどもは何度も大人に失望させられ、文句も言わずに瞳の奥で真実を飲み込む。メイジーの母親は、自分ひとりも扱いこなせず、周囲を振り回すうちに自分まで目眩がしてしまう。父親は、仕事という大義名分の元に、ありとあらゆるドタキャンをし、稼ぎを引き換えに許しを乞う。でも、唯一救いがあるとするなら、そこには儚くとも、揺るぎない何かが存在するということ。劇中、何度も、私たちを暗示にかけるかの如く、母は子を、父は子を抱きしめ「愛してる」を繰り返す。傍から見れば、そんな言葉や抱擁は、何の意味も栄養もないかもしれない。それより、もっと長い時間、一緒に遊んで、穏やかな暮らしがあるほうがよほど良い、と。けれども、どうしようもない両親は、メイジーを抱きしめる時、一瞬だけ無になる。「愛してる」というほんの一瞬だけ素になる。たとえ片手に、携帯やタバコが握られようと、その身の奥に潜む魂の声はほんものだ。
そして、それを見て思う。メイジーは愛を知っている。どんな理不尽があろうと、どんなたらい回しにされようと、人生に不器用な自分の親は、自分を愛してるということを。愛に条件をつけない少女の強さは、どんな泣く子も黙らせる。
勿論、親はこどもを育てる義務がある。ところが、どうもメイジー自身が、その正論を訴えるような柔じゃない節がある。望みはあるけれど、親を自分の一部と見なさない。長年の親の腑甲斐なさによる諦め、というより、どこか親を個として見つめるような潔さを感じてしまうのだ。物語の終盤、メイジーは血の繋がりのない他人であるマルゴとリンカンと過ごすことを選ぶ。本気か怪しい父がいつか口走った船に乗ろうという話が、メイジーの中でいつしかむくむくと育ち、このささやかな夢が果たされる時、彼女は独りの小さな大人になる。
不思議なことにこの映画は、これほどずっしりとした普遍を扱いながらも、観る者を耐えられない苦しみで塞がないのだ。親失格のメイジーの親でさえ、その人なりの存在価値と魅力がある。心の機微を丁寧に追いつつも、容易に善悪の判断を下さないところに、一筋縄ではいかない人生を映画に封じ込めた作り手の品格を垣間見る。
あと、どうして破天荒な親ほど、我が子に規格外のプレゼントをしたがるのだろう!真夜中にデカいツアーバスで乗り付けたロック母がメイジーに贈った、メイジーよりでっかい馬のぬいぐるみとエレキギターは、幼い頃の私もどこか身に覚えのある懐かしい匂いがした。一度も一緒に暮らしたことのない父が、勝手気ままに現れた時の滑稽で不器用な匂い、そのものだった。